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小学校、国語の授業

三年生、国語の授業で演劇、教室に劇場を立ち上がらせるような試みだった。
ペピン結構設計の石神さん、俳優の帖佐さんと行った。私は音楽担当。

子どもたちは脚本のないところから、納得して舞台に立つ、他人も同じく、を目指してじりじり踏ん張っていった。
主張、涙やいら立ち、あれこれ大事に含みながら、ほつれをときながら、自分たちで演劇に仕上げる。表現がいつもこんな共同作業とは限らないけれど、これは生によく登場する出来事だなぁと見ていた。
他を含みながらよりよい方へ、は子どものもつ自然の指向なのかもしれない。乗り越えたときのあんないい顔、なんてあらわしたらいいか分からない。そして過ごした時間を辿ってみると、その表情に変化できるよう自分自身で、全身で向かっていたことが分かる。

学校、学習するまたは教育するという枠組みの中にあたえられた演劇の時間だった。
わたしたちの普段していることにおいては、「教育」とずれている部分、矛盾している部分、たくさんあるのだろう。表現の場だったら別の方法を選ぶだろうな…と思うことに、学校に行くと大変よくぶつかる。

でも、というか、そのことこそがとても大事に思われる。
二つ以上の枠組みが一つの教室に重なって、同じ人を取り巻きながらすれ違うという出来事は、人々の生き生きとするその仕方を、別の角度からおーいおーいと引き出しているのではないかなぁと。
子どもたちはいつもの教室に帰っていく。物理的に場所を同じくしながら世界として脱線して(場所と矛盾した世界へ飛んでって)、合線って言葉はないと思うけど、合流かな?、また学校世界へ、場所と役割の世界の一致した教室へ戻っていく。でも、彼らは経験をしているから。
他の秩序をもった世界のことを、ぽん、と頭に思い浮かべることができるということ、または身体が覚えていること経験しているということ、人間には大事なんじゃないかなと思う。
例えばわたしたちが生きていく時、広い世界の対立するようなものに、思いを巡らせることができているだろうかとか。

ペピン結構設計も、石神さんも、とてもおもしろい。演劇のボーダーをじわじわ溶かしてくれる。多分全国各地で。たくさん会話をかわす人たちなんだな。何気ない会話が積み重なって、そのうちふと目の前にいる誰かが役者になっている。劇場が立ち上がっている。もちろん、やってみましょう、の一言が石神さんの笑顔と一緒に後押ししているのだけど。

子どもたちの自由帳。ちらりと見たところ、キャラやお話やメモらしきものが描いて/書いてある。詳しい内容は分からないけれど、それでも一冊一冊が宝物に見えた。何度もめくった帳面の分厚い感じ、シールで丁寧に装飾されたもの。作家の手記の続きに一筆加えるような緊張感で空白にサイン?を書きまくった。
みんなすばらしいものをかかえて生きていると思った。
by yukiko_nishii | 2014-09-26 19:35 | ノート
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